派遣3回目「協力隊のプロ」が教えてくれたこと―― 10年後の未来へのヒント 【インタビュー】

Bookmark this on Google Bookmarks
Pocket

こんにちは。ボツワナ協力隊のエツコです。今回は、インタビュー企画です。
お話を伺うのは、派遣3回目、10年任地に関わり続けたJICAボランティア、伊藤さん。協力隊活動についてご自身のご経験と、協力隊について思うことをお伺いしました。

「協力隊のプロ」に見えるのはどんな世界?

通常は2年間のボランティアだけれど・・
普通は2年間のボランティアだけれど・・ (画像出典:JICAボランティア

JICAボランティアの活動期間は「2年間」が一般的です。途上国で生活した日々は心に残るものですが、帰国後は任地との関わりは途切れてしまうのが普通です。ですが、伊藤さんの場合は違います。

なんと伊藤さんは、過去10年もの間、任地シェムリアップの教育に関わり続け、そのうち4年をJICAボランティアとして現地で生活しているのです。

伊藤さんはこれまで2回、JICAのシニア海外ボランティア(以下SV)としてカンボジアのシェムリアップ教育局に派遣されています。そして、来年3度目の派遣を同地で予定しています。3度目の派遣が終わったら、任地でのキャリアはなんと6年に!

 

もちろん、協力隊員の 99% は、
何もかも初めてのことばかりの “初心者” 隊員です。

はじめての途上国に驚き、ストレスも、感動もあり・・。
初心者にとっては、めまぐるしい 2年間。
そんな状況では、できごとの一面しかみれないこともありそうです。

一方で、協力隊経験を重ねてきた伊藤さんは、
いわば「協力隊のプロ」

2度のボランティア派遣を経て、豊富な経験と長期的なスケールでみる任地は、どんな風にみえるのでしょうか。10年、任地に関わり続けてきた伊藤さんのご経験や、今思うことについて。お話を伺います。

ito

―――
伊藤明子さん(プロフィール)

中学校の理科教師として30年のキャリアの後、シニア海外ボランティア(SV)として2006 年 から 2 年間、カンボジアのシェムリアップ教育局で教育行政の業務に携わる。

任期を終えて日本に帰国した2年後、2010年に再度SVとして2年間、同じ教育局に赴任し、シェムリアップの教育政策に貢献。そして来年2017年1月より、3度目の派遣で再び同局に赴任予定。

また、カンボジアの青少年育成支援NPO 「アンコール・クライマーズ・ネット」の副代表も務める。
―――

 

途中で帰国したネパール旅行が心残りで・・

himalayas-409_1280

― 2006年にはじめて協力隊に参加したきっかけは何だったのですか?

実は、どうにかしてネパールへ行きたいと思っていました。(実際にはカンボジアに派遣になったのですが。)

学生時代に、山仲間女子4人でネパール・インド旅行にでかけたんです。そのときは1年学校を休んで。思い立ってから2年で貯めた学生アルバイト代と、休学中の半年をフルタイムで働いて旅の資金をつくりました。(当時の時給300円で、航空券は格安でも往復25万円しました。)

前半のネパールトレッキング2回目、標高3400mの村でA型肝炎を発病して、解熱後に首都におりて半月くらいたっても黄疸がおさまらなくて。インドへいくのはあきらめて自分ひとりだけ先に帰国しました。

このことが、その後ずっとひっかかっていました。

その縁で「日本キリスト教 海外医療協力会」の会員になりました。うちは浄土真宗ですけど、以後40年間ずっと会員です。

会報が送られてくるたびに、自分に医療技術はないけれど、いつかこんなふうに海外で活動したいな、それもネパールで。と思っていました。

でも実際には、中学校教師としての勤務はとても忙しく、子育て、介護と両立させるのに精一杯でした。2人の子供が大きくなり、夫の両親も見送り、再びネパールのことを考えはじめました。

「シニアボランティアっていうので仕事ないかしら」でも、自分が応募できるネパールの仕事はなく、まあ、はじめはカンボジアでもいいか、と応募しました。そのうちネパールへ行くつもりでした。

 

赴任したら、担当の職員がいなかった!

シェムリアップはアンコールワットの門前町
シェムリアップはアンコールワットの門前町

― 実際にカンボジアの任地に赴任してみて、どんな感じでしたか?

生活面では、なにしろ自分の中では30年前のネパールを基準にしてますから、井戸ポンプはあるし、プロパンガスはあるし、ほとんど何不自由ないという気がしました。首都のプノンペンから300 km くらいのところにアンコールワットというお寺があって、その門前町が私のいたところです。

配属先に行って「あなたのカウンターパート(受け入れ担当の職員)は今、産休中で。戻ってくるのはいつになるかなあ?ちょっとわからない。」と言われたのが一番驚いたこと。でも、日本でも私を産んだ母の時代には産休代替がない職場も普通だったらしいので、「まあいいか」と。

業務の内容は、初代派遣だったので、JICA調整員と相談しながらかなり勝手に変えました。つまり、「要請の聞き取りをしたとき教育局長が言ったこの言葉は、実はJICAのお金で校舎を建ててほしいだけみたいだから、とりあえず無視して村の調査に行ってもいいですか」と。

カウンターパートが結局4か月後に復帰してくるまで、自分で好きなように現状調査をすることができたのは、むしろ幸運でした。

 

まず、職場に大きな地図を貼った

カンボジアの地図 出典:Wikipedia
カンボジアの地図 出典:Wikipedia

― 実際、どのような活動をしていたのでしょうか?

まず、州内の12郡のどこに何が必要かを示す「大きな地図」を作って教育局の壁に貼りました。要請内容は州内の教育の現場改善でしたが、当時は地図や統計を見て何か考えることができていなかった。

小学1年生の50%以上が落第して2年に進級できない郡もあったので、局員たちにそれが見えるようにしました。計画省の統計を使って州内に800ある村落ごとの就学率と識字率を出し、危ない集落を地図上に表示しました。

国全体で落第の統計の仕方が間違っていることも、州の局員たちの誤解の原因でした。でも地方局でそんなことに文句言っていてもはじまらないので。

とにかく、1年生を落第させずに2年にさせるにはどうしたらよいか、そこに同僚たちが問題意識をもてるように、あちこちの学校を一緒にまわって感じてもらいました。また自分もしつこく言いました。

 

現場の問題点をすくいあげる

%e3%83%97%e3%83%ad%e5%89%8d%e7%b7%a8
村での調査(写真は2012年のもの)

村の学校を巡回指導している局員はカンボジアの「街」で育った人です。学校の先生たちもその村で育った人ではなく、子どもの頃からテレビがあるような環境で育っているので、電気もない村の人との意識とは当然ずれています。

村では学校の先生自身が“よそ者”です。街から先生が1人赴任して、子どもたちが学校に来ないので悩んでいる。そういう状態でした。

私は学校で写真を撮ってから村内の調査に行き、この村の問題は6歳で就学できないことだとわかったら、村長さんのところに先生と一緒に頼みに行きました。

村では自分の子どもの生まれた年がわからない事も多いので、そういうときは干支(えと)を使います。カンボジアの干支は日本と同じなので、例えば、戌年は全員学校に行くのだと教えて。

「出生証明書がなくても戸籍があれば学校に来ていいよ」「戌年生まれの子どもはみんな学校に来なさい」と、写真を見せながら進めていくようにしました。

また、「州の教育局員が知らない現場の問題点」をすくい上げて解決を促す活動もしていました。

一例をあげると、昼間の学校の先生が逃げてしまって不在なので、夜の識字教室の先生がボランティアで朝一時間だけ小学校を教えていることが判明し、局員から郡事務所に連絡してもらってようやく新しい教員が赴任される、というような。「行政と現場の橋渡し」として活動していました。

 

帰国後は日本から「計算ブロック」で支援

%e8%a8%88%e7%ae%97%e3%83%96%e3%83%ad%e3%83%83%e3%82%af
計算ブロックで算数を学ぶ、小学生

-伊藤さんの任期が終わったあと、シェムリアップ教育局はどうなったのでしょうか?

私の離任後すぐに、後任のSVが派遣されました。後任の方は、私とはまたちょっと異なる方法でしたが、視学官(日本でいう県教育委員会 指導主事)たちの能力向上や、教育局の業務を紹介するという点で素晴らしい仕事をされました。

「シェムリアップの教育」というドキュメントを日英二か国語で作ってくださり、それを局内の別の協力隊員が冊子にまとめました。それを私が2回目の派遣のときに引き継いで、JICAの現地業務費を使って英語版の冊子を現地のクメール語に訳してもらいました。

― 連携プレーですね。伊藤さんは帰国後も日本から、任地の支援をされていたんですよね。

はい。2度目の派遣まで一度もカンボジアへは行きませんでしたが、「計算ブロック」を通じてのつながりはずっとありました。

「計算ブロック」というのは、日本の小学校で算数を教えるときの教材です。カンボジアでは小学2年生に繰り下がりの引き算、例えば 93 – 67 を教えるのに、ストロー 93 本を全部数えさせてしまう先生もいました。十進法を理解していないわけです。

それで、JICAのつながりで「広島元気な学校プロジェクト」の先生方がシェムリアップ州の先生向けに「計算ブロック」を使った指導方法を教えてくださって。1500セットものブロックを送り、研修会をして、教師用テキストもクメール語で作ってくださいました。

その後、プロジェクト地が移動して広島からの支援はなくなってしまいました。でもせめて教員養成校の学生に対してだけは続けたいと、個人で活動を続けて。配属先の元同僚は今も自分たちで研修会を継続して、授業も続けてくれています。

 

再び訪れたシェムリアップ

以前はストロー93本数えていましたが・・今はもう大丈夫!
以前はストロー93本数えていましたが・・

― 帰国して2年後の 2010年に、2回目のSVに参加されたのですね。次はカンボジアでなく違う国に行ってみたい、とは思わなかったのですか?

2回目もネパールに行きたい気持ちは変わらず、東京でネパール語教室にも週1回は通っていました。でも、まだネパールの要請で、できる仕事はありませんでした。無理やり無資格のネパールの案件に応募しましたけれど、落ちました。

それから、「計算ブロック」を集めて送っていた件で、カンボジアについても「もう自分で行くしかないか」という状態になっていたこともあります。

今でこそ、メール添付で図も送れますが、当時は、「教本原稿の図がこわれてしまい、2羽の鳥 + 3羽の鳥 = 6羽になっている・・」というトラブルも、そこへ行かなければ直せませんでしたから、またカンボジアを希望しました。

ちなみに、2回目の派遣終了後には、ブロック配布と教本の印刷発注のために何度か自費でも渡航しました。10年活動を続けて、さすがに引き算を教えるときにストロー93本全部数えるような先生も減ったので、そろそろこの教材も終了宣言かなと思っています。

― 2回目(2010年)に訪れて、任地の印象は変わっていましたか?

任地はあまり変わっていませんでしたが、首都は全然違う町になっていました。

視学官の 9人は全員変わらず同じメンバーでしたが、はじめ私のカウンターパートだった職員は、英語ができるため出世して管理課長になっていました。

ただ前回も彼女は産休復帰直後で出張が限られていたので、実質一緒に活動していたのは視学官たちでした。それで、活動はスムーズにはじめられました。

― 2回目の赴任ではどんな活動をしたのでしょうか?

「教育行政」から「教育政策」へと要請の名前は変わったものの、シェムリアップの教育局で視学官たちへの アドバイス活動をしているのは1回目と同じ です。

ただ、2回目はクメール語の訓練を受けていたので、ほとんど英語のできない視学官や学校の先生方と、密にコミュニケーションがとれるようになりました。

小学校の算数は3年まで、国語は2年までのクメール語の教科書を、現地の先生と一緒に読みました。クメール語の掛け算九九も覚えました。授業で話されていることの、かなりの部分を聞き取れるようになったので、助言もしやすくなりました。

クメール語
クメール語 (画像出典

 

― 最初に訪れた4年前と比べて、シェムリアップの暮らしや教育に変化を感じましたか?

さすがに「6歳の子を学校へあげなくてもよい」と考える親は減ってきています。ゼロに近いです。でも、以前には農村の大家族の中で吸収されていた、新たな問題が出てきています。

親が子どもをほったらかして出稼ぎ、学校を休ませて出稼ぎに同行させる、プランテーション農業の大規模化で労働者は学区外へ強制移住、それに伴う子どもの転校先はなく退学に・・。

こういう問題は農村では、以前は祖父母が引き受け、留守を守って子どもの面倒をみていました。しかし現代的な核家族には通用しません。

統計をとってみたわけではないですが、ちょうど小中学生くらいの子供の親の世代が、幼少期を ポルポト時代の家族否定や、その後の内戦 の中で過ごしてきたためか、うまく子育てできない、暴力をふるう、年寄りを大切にしないなどの問題があります。

― 2回目の派遣だからこそ気づけた、理解できたと思うことはありますか?

それはもうたくさんあります。何よりも、2回目の派遣前訓練でクメール語を65日習ったことが大きいです。

カンボジア人を理解することも、初めて来たときよりもできるようになってきていると思います。

諸外国の横並び民主主義に基づいた援助の数々が、どうもカンボジア人には理解できない。「児童中心の教育」なんか正しいと思っていない。

クメール語では、「一生懸命勉強する」という単語は「経を読む」と同じです。上司の言うことをその通り忠実に実行することが一番正しいことだと教え込まれているし、学校では先生の言う通り唱えて覚えることが正しいと多くのカンボジア人は思っています。この感覚は、中国人、韓国人と、日本人には容易に理解できますが、欧米人には難しい。

開発援助でたくさん投入されているヨーロッパの教育方法を、かみくだいて説明するのには、KOICA(韓国)とJICA(日本)のボランティアが適任です。自分もその一人になろうと思っています。

 

派遣3回目でも、乗り越えられない壁。

%e3%83%97%e3%83%ad%e5%be%8c%e7%b7%a8
小学校教員向けの研修会(2011)

― 活動中はどのようなことに苦労されましたか?

はじめの要請内容には、「援助調整」がありました。これは、特にシェムリアップのように世界各国から「よかれ」と思って、いろいろな援助のはいる地域ではたいへん難しく、とても自分にはできないことでした。3回目の今回でも難しいと思います。

というのは、たとえば校舎建設には、内務省からの命令系統と、教育省の系統があり、私が意見を言えるのは教育省だけだからです。

内務大臣(カンボジア地方省庁の元締め)のほうに校舎建設のお願いを出す村長さんなども多く、NGO等のドナーも内務省とつながっている場合も多いので、内務大臣が「この村に学校を建てるぞ」と言っているのに、「そこでなくこっちの村にしてください」なんてことは、上意下達のカンボジアではありえないことです。

ですので、地方教育局長にすらできない調整を私が入ってできるわけもなく、敗退しました。これは未だに乗り越えられていないですね。

― 3回目の派遣に向けてチャレンジしてみたいこと、深めてみたいことはありますか?

さっきの「援助調整」の話とつながりますが、カンボジアにはヨーロッパから今までに多くの教育援助物資が投入されました。でも正しく理解されないまま放置されています。ここを繕うような作業をしたいです。

具体的には、小学校算数の教員用の教本や、児童用の練習帳がネズミの餌になっていたり、図書室で(ネズミに食われないように)缶や袋に入れられたまま封印されているものを掘り起こし、教科書のどの単元で使えるものなのかを示していくといった作業です。

中学校の理科室については、JICA事務所でも考えてくれているようで、今回の秋募集の青年海外協力隊の要請に、隣の州の使われていない実験道具を使えるように指導するというのがあり、これに拍手を送りたいです。こういう要請にぜひ応募してほしいです。

 

「協力隊」であることの意義とは

_mg_8945_r_r

― 伊藤さんは、援助機関や国際開発協力の専門家、NGO職員との関わりも多いかと思いますが、協力隊との違いはどのようなものだと思われますか?

カンボジアで見ている限りでは、協力隊はそういった仕事の登竜門ですね。クメール語の訓練を、国の税金でさせていただいて、その能力を活かして、NGOや、専門家、コンサル会社等で活躍されている例をいろいろ目にしています。

協力隊に参加して得られるよいところは、語学訓練がまず一番だと思います。中には、NGOに最初は勤めていて、やはりクメール語ができないと困ると思って協力隊に応募し、そこでクメール語を教えてもらって、また別のNGOに就職し、成果をあげている例も知っています。

協力隊と接する側としての利点ですが、「めげない、負けない、気にしない」という明るい人が選ばれているような印象で、安心して付き合うことができるし、仕事を頼んだり頼まれたり気楽にできますね。

― 伊藤さんは専門性も高く全体をまとめるような働きをされていると感じます。ボランティアではなく「JICA専門家」として派遣されるのが適当なようにも感じますが、そのあたりはどのように思われますか?

協力隊ボランティアの方が草の根で関われるので自分には向いていますが、SV全体をみると、専門家のほうが良い方もいらっしゃいます。

国全体のしくみの改善にかかわる仕事をする場合、例えば教育だと全国の指導要領改訂とか、教科書の改善などは、専門家として入って省庁の高い地位のカウンターパートと組むと良い仕事ができると思います。

まず青年隊員(20~40歳)として現場を経験し、専門家またはシニア海外ボランティアになって中央省庁に入り込むことができたら、一番良い働きができるのでは。

自分の場合は、JICA専門家の偵察隊のような役割が向いています。現場からの情報をまとめ、国全体のシステム改善につなげることができたらと。また、青年隊員が任地の近くにいれば、いろいろ連携できたらいいですね。

 

「協力隊」について思うこと

dscf1157_r_r

― 協力隊について、もっとこうしたらここが良くなると思うことはありますか?

隊員の募集について、どこへ派遣されるかわからなかった以前の募集方法にくらべ、派遣先の希望ができるようになったことは良かったと思います。昔と比べて、学生時代から途上国を経験する人が増えているので、特定の派遣先に思い入れのある人も増えているはずです。

また、以前は、任期中の 日本への一時帰国 は認めらませんでした(2006年、1回目の派遣時)。隊員のパスポートは一回旅券、つまり一度何かの事情で帰国したら無効になり、再び取り直しになるものでした。

そのかわりといっては何ですが、「帰路変更」という制度 があり、任期終了後二週間以内ならエコノミークラス直帰運賃との差額自己負担で、あちこち旅行してから帰国することができました。その昔は、帰路変更期間はもっと長かったと聞いています。

まり 昔は、隊員経験は「めったにできない海外生活体験」であり、それを有効に生かして帰国後に日本の皆さまに紹介することも期待されていました。

今や、海外生活は珍しいものではないし、片道航空券より格安往復航空券の方が安いくらいですから、遊びたいなら直帰してから、勝手にまた行けというのは、納税者として当然の変化でしょう。「生活紹介」ならばテレビでもやっています。

それでもなお「協力隊の良さとは」、協力隊の皆さんが身に着けた語学力や、異文化体験です。これは、協力隊活動を終えたあと、海外でいろいろな仕事をしていくために大きな力になります。ぜひ生かしていってほしいです。

「グローカル協力隊」といった新しい試みもあるようです。国内で生かすこともできるでしょうし、現職参加の方は、もともとそれが求められていますね。

でもまたシニアになったら、隊員経験を活かして、より高度な活動ができるはず。草の根における、真の協力 をこれからも求めていってほしいと思います。

― ありがとうございました。任国での活動を終えてからこそ、そこからまた頑張ろうと思います!

 

インタビューを終えて、10年後を考えた。

伊藤さんが、協力隊員としてカンボジアと出会ってからの、10年間のお話を伺いました。

インタビューの前、シェムリアップ教育局の支援が成功した理由は「継続性」だと思っていました。つまり、「協力隊のプロ」である伊藤さんが、ずっと同じ任地をフォローしたから、うまくいったんじゃないかなと。

だけどお話を伺って、ポイントはそこだけではない気がしました。インタビューを終えて思う、伊藤さんの ”最も大きな仕事” は

「職場に、大きな地図を貼ったこと」です。

初代ボランティアとして、みんなで一緒に同じ方向をみて進むための地図を描き、カンボジア人と協力隊員が協働できる土台をつくったこと。そうすることで、後に続くボランティアも成果を残しやすくなったと思います。

そして「JICAのお金で校舎を建ててほしいっていうだけ」が本音の要請書を とりあえず無視して村に調査に行く、草の根の行動力。

協力隊活動における自由度の高さはときに隊員を苦しめますが、伊藤さんのような素質をもつ方には、その自由があることで、より草の根的な活動が可能になり、凝り固まった体制に一石を投じるきっかけになります。

伊藤さんの10年の活動をたどると、シェムリアップの教育の現状が「様々なサポートの影響を受けて改善していく」様子や、「時代の変化に伴って、新しい問題が現れてくる」ことがわかります。

また、それらの問題に取り組む「協力隊員」をとりまく世の中が、変化していることも。

 

今、協力隊が関わっている国々は
5年、10年後には、どんなふうに変わっているだろう?

その多様な変化の 1つに
今、協力隊員は、どう関わっていけるだろう?

そして協力隊員の、5年後、10年後を
変わりゆく世の中は、どう受け止めてくれるだろう?

 

そんなことを考えるきっかけになった、インタビューでした。伊藤さん、ありがとうございました!

ケアレボーハ!

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Bookmark this on Google Bookmarks
Pocket

コメント投稿は締め切りました。